「薪をくべる」のくべるって用法が限定的すぎませんか。飴と鞭ってそれどっちもご褒美じゃないですか。
「旅行」と「旅」
どちらも同じように遠くへ出かけることを指す言葉だが、言葉の響きからは、それぞれが異なる意味を持つように感じられる。
それは辞典にない身勝手な直感に過ぎないが、確かに別々のものだ。
いつか辞典の中でも区別してみたいと、密かな野望を抱きつつ書いている。
ぼくは「旅行」とは訪問者に徹すること、「旅」は住人への擬態を試みることではないかと思う。
よく「自分探しの旅」なんて言葉を聞くが、詰まる所は違う街に生きる自分を探すということだろう。
いずれにしろ見知らぬ土地を歩き、土地のものを食べ、非日常を過ごすことに変わりはない。
だからその二つを分けるのは、初めての土地を自分がどのように受け止めるかという心情の問題なのだろう。
ぼくは歩いた。
匂いが身体に沁みてゆき、言葉が自然と鼓膜を震わせていくのを感じながら。
おみくじの結果に笑い合う恋人たちと、澄んだ水が穏やかに流れていく森。
高明な武士が幼年期を過ごした山は恐いくらいに深く険しかったが、かつては海の底だったらしい。
かの小説の舞台となった歴史ある寺院では、その印象的な一幕を想った。
深夜の幹線沿いを歩いていたら、風で歩道に流れてくるビニール袋と、それを執拗に車道へ蹴り返す老人がいた。
駅前ではオールバックの年齢を感じさせるギター侍が、リズミカルに一つのコードだけを搔き鳴らし続けていた。
心待ちにしていたもの、想像した程ではなかったもの。
訪れるまでの予感を遥かに超えて、圧倒的な実感で迫ってきたものもあった。
そうして心からこの街の一部になることを願った。
通りの名前をいくつか覚えてきた頃に、ここを離れて行くことを寂しく思う。
根無し草ってなんて素敵な言葉。
どこにでも浮かんでいられるから、根が生えた黒いシミであるよりずっといい。
だけどギリシャ詩人のように生きてはいられないから、ぼくは日常へと帰っていく。(そこに根があるか定かではないけれど)
「生」と「死」がそうであるように、「日常」と「非日常」も切り離せない陰陽の関係にある。
背伸びして贅沢をしたり、訪れたことのない場所を楽しみながらも、ぼくは自身の生活のことを考えていた。(春の風のように穏やかだったあの日々!)
そうした思考は時間が経つ程に強くなっていった。
まさに太陽が傾くにつれて陰が伸びてゆくような感じで。
ぼくは帰ってゆく。
明日は昨日と違ったぼくであるようにと願いながら、それも忘れて相変わらずが続いていくのだろうな。
そんなことを思い歩いていたら、通りを向こう側から渡ってくるギター侍とすれ違った。
また会えたらいいな。